今日の大阪は霞がかかり、雨にでもなりそうです。
今のところ降っていませんが、ここのところ、こんな天気が続きますね。
さあ、いよいよ「会津への旅」と題してお送りしてきた旅レポ、終盤にかかってきました。
たぶん(6)では終わらないと思いますので、(7)が最終回とお考えの上、お付き合いいただければ幸いです。
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家を出てから3日目の朝を迎え、いよいよ大阪へ帰らないといけない朝が来ました。
会津にいる間は本当に心穏やかに過ごすことができ、会津のみなさんの心の温かさに触れ、もうほとんど「ここに住みたい」状態になっていましたが、今はそうはいきません。
朝から温泉につかり、お気に入りのバイキングを食べ、身支度を済ませると、2日に渡って貯めこんだ喫茶券を使って、出発前にロビーでお茶をいただきました。
そこへ、福島の環境調査の人が来てアンケート調査の協力を頼まれました。
「どこから来たか」「また来たいか」などのアンケート調査を受け、答え終わったとたんに、こんなのいただきました。
「わあ。八重たんだあ〜」
ということで、またまた、本当にいいお土産ができ、いよいよ宿を後にすることとなりました。
2日間、本当によくしてくださったスタッフの皆さんとお別れし、宿のバスで会津若松駅まで送っていただきました。
でも、3日目の帰る日の朝とは言え、まだ15時ころまでは時間があります。
さて、今日はまだ見つくせていない場所を回るぞ・・・ということで、会津若松駅に立った私たちの耳に、何やら囃子の音が聞こえてきます。
「彼岸獅子が来ると会津に春が来る」そんな言葉がこの地方にはありますが、まさか、その彼岸獅子に、ここで会えるなんて、そんなラッキーすぎるような偶然ってないよね?と思いながら顔を見合わせたゆうと私ですが、囃子の聞こえる方へ猛ダッシュです。(笑)
ついてみると、本気で彼岸獅子がそこにいました。
この彼岸獅子は赤枝という磐梯山の近くのグループで、その日は偶然にも彼岸の入り、その日には駅の近くの一筋目の道を回るということで、各家に春を届けに来ていたところでした。
彼岸獅子にも戊辰戦争の時の逸話があります。
戊辰戦争のさなか、山川大倉という武将が、一個連隊を引き連れ鶴ケ城で戦うため入城しようとしたところ、すでに城は敵に囲まれ、無血で入城がかなわない状態となっていました。
そこで考えた秘策がこの彼岸獅子でした。
彼岸獅子を仕立て、敵が「なんだ、なんだ」とあっけにとられているうちに、それを先頭に入城してしまったというのです。
これは、悲劇の話の多い戊辰戦争の会津の逸話の中でも、唯一、愉快で明るい話として語り継がれています。
さて、彼岸獅子をみたいと思っていた私たちですが、時期もあるし、いつ見れるかもしらなかったので、まさかと見れるとは思ってもいなかったところに、このサプライズ。
二人とも喜びはひとしお。
彼岸獅子にまたまた、元気をたくさんもらって、さあ、いよいよ、会津藩校として知られる日新館へ行くこととしました。
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日新館は今は、磐梯山のほぼ近くに位置します。
藩校として、五代藩主・松平容頌の時代に家老田中玄宰の建議によって企画され1803年に完成しています。
そこで学ぶことは、会津藩祖・保科正之の遺訓を旨に文武両道にわたる幅広い内容でした。
日新館につくと、まず最初に目に入るのが、「什の掟」の立て看板です。
これは、日新館に入館前の6〜9歳の子供たちが什というグループとして、徹底的に教え込まれたもので、これができないものは日新館には入館できないとされていました。
今では子供たちが近所のガキ大将を中心にグループで遊ぶことはしなくなりましたが、よく説明を聞いてみると、それを定めたみたいなグループが什であり、うちの母に言わせると、「昔は修身という時間で習ったことよね」という内容がこの什の掟で示されています。
中でも「八重の桜」が始まり、「ならぬことはならぬものです」という言葉がよくテレビでも会津を紹介する時に紹介されるようになりましたが、この言葉は、什の掟のひとつで、どこまでいってもだめなことはだめなのだと説いたこの教えは、戊辰戦争であそこまでたくさんの犠牲を出したことにつながった教えかもしれないとも思いますが、それを含めた掟が会津の会津魂の根本となり、また、一度滅びて無くなった土地をここまで会津らしく復興させたものと、ここにきてまた思われました。
日新館の教えがどれほど大きく子供たちの心に深く浸透していたかということが分かる話が、藩校出で、家老・萱野権兵衛の次男、郡長政という人物の話でよくわかります。
父親萱野権兵衛は、家老として4番目の席にいましたが、戊辰戦争後、敵から3人の家老職の首を差し出せと言われた折、筆頭家老・西郷頼母は主君の命でシンカンを守りこの時行方知れず、次席の田中土佐・神保内蔵助はすでに自刃してこの世にいなかったため、4番目の席にいた萱野権兵衛が切腹を命ぜられます。
そんな悲劇の家に生まれた子供たちは、萱野の家が断絶したため、母方の郡の名前を名乗ることになり、斗南藩として暮らしているころ、次男・郡長政は成績優秀で藩を代表して他藩へ勉学に行くことになります。
ところがそこの藩では食べ物が貧しく、発育盛り16歳の長政は食べ物が足りず国の母に柿を送ってくれと手紙を書きますが、母はこの手紙を不憫に思いながら読みますが、心を鬼にして「藩を代表して他藩へ勉学に行っている者が食べ物のことで泣き言を言うとは」と叱責の手紙を息子に送ります。、
これを見た長政は反省の意味を込めてこの手紙を肌身離さず持ち歩いていましたが、ある時これを懐より落としたのを学友に見られ、それを貼りだして、会津藩のことまで辱める言葉を受けます。
自分のことだけならいざ知らず、藩のことまで侮辱されたときに長政は「ならぬことはならぬ」と言う教えを思いだし、結局自分が母へ手紙を書いたこと、それ自体が「ならぬこと」であったと反省し、藩への恥辱はすべて自分の責任と、自刃して果てたということです。
これほど子供たちに浸透した教えが、「什の掟」であったということが、この藩の基礎を支え、今も息づいているのだと、改めて感じる話でした。
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この看板を見ながら少し洋風の狛犬の間を抜けると、復元された日新館があります。
写真を撮ろうと、なんやかやいいながらカメラを構えていると、「関西からいらしたんですか?」そう、ここのスタッフの方に声をかけられました。
「はい」と答えると、「どちらからですか?」の言葉。
「大阪からです」と言うと、「遠いところをようこそ」と言われ、「お撮りしましょう」と、撮っていただいたのがこの写真です。
日新館の文字に少し襟を正すような気持ちで門をくぐると、中はものすごく広く・・・。
ひとつひとつの建物を見て回ることとしました。
勉強ができても芸事に秀でていても、「人の道」を知らなければそのものは人ではなく、獣や鳥と同じだとした日新館の教えは絶対的なもので、会津若松の街に流れる優しさや思いやり、そして、人に対する気遣いなどは、この藩校時代からの教えが今も町の人々の心の中に生きているからなのだと、ここに行き、その教えを改めて知ることで、うなづけることがたくさんありました。
藩校生はここで水練・騎乗のまま水に入る訓練などを受けたとされますが、しっかりと、この日は水は氷と化していました。
さて、この中を回りながら、いろいろなことに感心しつつ、私たちも弓を習ってみることに・・・。
ここに行ってみると、さっき写真を撮ってくださったお兄さんがここの人でした。
なれないものはなかなか難しく、引いた腕がまっすぐにならず、下に力が行くのがだめだなあ〜と写真を見て改めて反省したりしながら、思わぬ体験をし、心の勉強もして、日新館をあとにしました。
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さて、長くなりましたが、いよいよ最終回、会津への旅(7)へ続きます。
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